ENVIRONMENTALCOLUMN 環境情報を知りたい方/環境コラム
尾張の熱田で生まれた伝統食品「名古屋かまぼこ」の魅力に迫る
おせちや鍋物、うどんや茶碗むしなどの具材に使われ、酒のさかなとしても好まれるかまぼこ。日本人にとって馴染みの深い水産練り製品は、一口にかまぼこといっても、板付きのものやちくわ、はんぺん、揚げたものなど全国にさまざまな種類がある。私たちが暮らす名古屋にも、この地で生まれ、食べられてきたかまぼこがあるのを知っているだろうか。かつては海に面し、海上交通の要所であった熱田湊には、大きな魚市場があった。その一帯では、魚を加工する商いが繁盛し、かまぼこ作りも盛んだった。その伝統は「名古屋かまぼこ」と呼ばれ、今も受け継がれている。今回は、魚の旨みと栄養がたっぷりと詰まった郷土の食べ物を紹介したい。
特徴は朱色と弾力の強さ
熱田区の白鳥(しろとり)地区。多くの車が行き交う伏見通りを挟んだ向こうには、熱田神宮の深い森が広がる。宅地が並ぶ閑静な町のなかに、江戸時代から商売を続ける大矢蒲鉾商店がある。代表を務めるのは6代目の大矢晃敬さん(42歳)。父、母、妻、従業員1名とともに、製造から営業、販売まで忙しい毎日を送っている。工場には直売店があり、板付きの蒸しかまぼこや蒸し焼きかまぼこ、しんじょ、五目野菜、柚子胡椒、ゴボウなどの具材が入った揚げかまぼこを常時10品くらい販売している。そのなかでも特に目にとまる朱色のかまぼこがある。店の看板商品である名古屋かまぼこのうちの「朱板(あかいた)」と呼ばれるものである。
大矢蒲鉾商店が作る名古屋かまぼこには、朱板、白板、焼板の3種の板付きのかまぼこがある。その特徴は、朱板の「品のある朱色」にあると大矢さんは説明する。朱色は昔から邪気を払う色とされ、信長も好んだと伝わっている。朱塗りの鳥居や社殿を持つ神社は、この地にも見られる。昔から人びとの信仰を集める熱田において、朱色は特別な色であったかもしれず、名古屋かまぼこの色はそうした文化を伝えるものなのかもしれない。そして、もう一つの特徴は、しっかりとした歯ごたえにある。大矢蒲鉾商店が作るかまぼこは「名古屋のなかでも弾力が強い」。このような練り製品が、熱田でいつから作られるようになったのか記録はなく、わかっていない。かまぼこそのものは誕生から1000年以上の歴史を持つが、名古屋かまぼこの起源について大矢さんは、「信長がいた時代には食べられていたのでは」と推測する。
ルーツは熱田魚市場にあった
名古屋市熱田区役所のサイト『神戸・大瀬子の魚市場(熱田魚市場)から日比野・中央卸売市場へ』によると、江戸時代より昔、現在の熱田区神戸町より南には海が広がっていた。その浜辺に小屋が建ち、いつの頃からか魚介類の商いが行われるようになる。それが「熱田魚市場」の始まりである。信長の時代にはすでに数軒の魚問屋があり、居城のある清州まで魚を運んでいたという。熱田魚市場はその後、尾張藩の保護を受け「大瀬子(おおせこ)」と「木之免(きのめ)」に市場が設けられ発展していく。大矢蒲鉾商店は、この魚市場で生まれる。創業は1860年で今から160年前の江戸時代より営んでいた。魚市場の仲卸で番頭を務めていた初代・大矢清吉が独立し、かまぼこを作ったのが始まりである。
熱田魚市場があった大瀬子町から木之免町を歩いてみた。熱田神宮から歩いて10数分くらいのところである。現在は、堀川に沿って大瀬子公園が整備され、住民の憩いの場となっている。公園内には、魚市場があったことを示すものとして、壁面に魚を描いた記念物が建っていた。また、明治時代に魚問屋であった建物の部材を活用して再現した建屋があり、当時を偲ぶことができる。かまぼこはもともと高級な食べ物であったが、江戸時代に入ると庶民にも広まる。前述の『神戸・大瀬子の魚市場(熱田魚市場)から日比野・中央卸売市場へ』によれば、熱田区川並町に名古屋市中央卸売市場が完成し、熱田魚市場が廃止される昭和24年まで、周辺にはかまぼこなどの海産類の加工を行う商店が立ち並んでいたが、市場の移転や工業の発展に伴い、急速に衰退したという。熱田神宮の門前町や湊町として古くから栄えた熱田は、東海道で有数の規模を誇る宿場町で、宮宿(みやしゅく)とも呼ばれた。人、物、情報が集まるこの地でかまぼこは日夜作られ、ずっと前の時代より人びとの口に入ってきたのだろう。
かまぼこ作りにも環境変化が影響
あたりが寝静まる未明の3時すぎ。大矢蒲鉾商店の工場に明かりが灯る。かまぼこの製造は、繁忙期の冬場は毎日行うが、需要の少ない夏場は気温が高くすり身も傷みやすいため、週のうち2、3回、涼しい時間帯に作業が行われる。夜明け前に工場を訪ねると、擂潰(らいかい)機と呼ばれる、大きな石臼と杵がぐるぐる回転し、スケトウダラの魚肉を練っている。そこに塩と調味料を加え、ねばりを生む大事なところの真っ最中だった。かまぼこを作る工程は大きく分けて、①魚をおろして魚肉を採る「採肉」②魚肉を洗い余分な成分を取りのぞく「水さらし」③擂潰機で魚肉をすりつぶし塩などを入れて弾力を生む「すり」④すり身を板に付けて形をつくる「板付け」⑤蒸気でかまぼこを蒸す・冷却などがある。かまぼこの原料は、シログチやヒラメなどの白身魚、マグロやカツオなどの赤身魚などさまざまだが、多くの製造業者は海外の洋上で獲れ、船上で加工されたスケトウダラの冷凍すり身を使っている。大矢蒲鉾商店では、スケトウダラのすり身のなかでも上質なものを選び、一本いっぽん納得するものを作るため手作業にこだわっている。
練られたすり身が成形機によって板付けされ、一本ずつに切断されてベルトの上をどんどん流れてくる。かまぼこの原形が出来上がってくると、大矢さんはその一つひとつを手に取り、五感を働かせながら経験と勘を駆使して品質を確かめる。「その日の気温や室温、湿度で身のつき方、かまぼこの顔が変わる。機械も日によって調子が違う」。どの作業も気を抜くことができないが、「すわり」とも「あし」ともいうかまぼこの弾力を作る「蒸し」の工程は、魚の状態を見極めたうえで時間と温度を毎回細かく調整するため神経をとがらせる。そして朝7時過ぎ、名古屋かまぼこの予定していた分を蒸し終えると、張り詰めていた緊張が解ける。後はいったん冷まし、一本ずつ包装すれば出来上がりだ。
最盛期の昭和30年代には、熱田区内だけでも100軒を超すかまぼこ店があったという。今、名古屋かまぼこを作る店は数軒もない。食の多様化や簡便化などから魚離れが進み、かまぼこの消費も伸び悩んでいる。近年は海水温の上昇により、スケトウダラの漁場が変わって魚の質そのものが落ち、昔に比べてすり身の弾力が弱くなっているともいう。魚肉の水分を吸収し品質を保持してくれる、かまぼこには欠かせない板も、以前は国産の材だったが手に入らなくなり、スイスから輸入した籾(もみ)を使っている。店の経営を維持し、安定した品質のかまぼこを作り続けるうえでの苦労は絶えず、「環境問題は僕らの仕事にも影響している」と大矢さんは話す。
「歯を弾く食感があって、かむとプツンと切れる」。そんな最良のかまぼこを追求し、保存料無添加の安全・安心な製品作りに邁進する。魚の旨みと栄養を凝縮し、保存性を高めたなかにあるおいしさには、自然からの恵みと私たち先人の知恵がつまっている。熱田で生まれ育まれてきた、職人の技と心がこもったかまぼこの魅力を味わってみてほしい。