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尾張丘陵に多く存在したため池 里池と共生した先人の暮らしを探る

取材・文 新美 貴資
  • 自然

名古屋市を含む濃尾平野の東側に広がる丘陵地。尾張丘陵とも呼ばれるこのあたりは、古くから農業用のため池が多くあり、人びとの営みに欠くことのできない存在であった。田畑へ水を供給する、地域における社会的共通資本として、住民によって守られてきたため池は、長い間にわたり人と共生してきた。環境の変化によって、その多くは失われ、伝統や文化も衰退したが、今も残っているところは、希少な生き物の生息場となり、自然と親しむことのできる憩いの場にもなっている。尾張丘陵のため池にかつてあった、人との深い関わりについて探ってみたい。

多面的な機能を持つため池

ため池は、農業用水を確保するため、先人によって造られた人工の池である。降水量が少なく、大きな河川に恵まれない地域などに多い。「身近な水辺 ため池の自然学入門」(ため池の自然談話会編、合同出版、1994年)によると、その歴史は、稲作文化が大陸から日本列島にもたらされた、弥生時代までさかのぼる。「丘陵の谷間を開いてつくった水田を灌漑するため、谷頭に堤を築いて湧水を貯めたのが初期のため池の姿」(同書)だという。山地や丘陵の谷間に作られた小規模な水田は、やがて平野部へと広がり開発が進む。そして、水田が大規模になるにつれて、造られるため池も大きくなった。

歩道が整備されている立石池(長久手市)
特定外来生物のオオクチバス(名古屋市環境局なごや生物多様性センター提供)
外来生物のミシシッピアカミミガメ(名古屋市環境局なごや生物多様性センター提供)
ため池の周辺に不法投棄されたゴミ

魚を捕り食べる伝統文化があった

多くのため池では数年に一度、水質を保全するために水の大部分を抜いて泥を落とす「池干し」が農閑期の秋口に行われた。その際に魚捕りが行われ、人びとは捕獲した魚を貴重なタンパク源とした。漁具を持って池に入り、魚を追うことは季節の風物詩であり、地域の娯楽でもあった。尾張丘陵のあたりでは、魚を捕ることを「殺生(せっしょう)」と呼び、職業として行う以外の漁のことを指した。昔は多くのため池で「池殺生」が行われていた。主催したのは、ため池を管理する村落や消防団などで、参加者の多くは、灌漑によって池の水を使う地元の受益者であった。

県や尾張丘陵にある自治体の刊行物に、池殺生についての記述がある。「愛知県史民俗調査報告書5 犬山・尾張東部」(2002年)、「新修名古屋市史 資料編 民俗」(2009年)、「みよしの民俗」(2011年)、「日進市史 民俗編」(2015年)などに書かれている内容を要約すると、池殺生は10月の秋祭りの前に行われ、捕まえた魚は祭りのご馳走になった。例えば牧野ヶ池(名古屋市名東区)では「コイは鯉メシにして食べた。ネギやショウガを入れ臭いを消して食べた。フナは鮒味噌、ウナギは蒲焼きにして食べた」(「新修名古屋市史 資料編 民俗」、前掲書)とある。池殺生は、事前に開催日が告知され、人びとは入漁料を払い入場券を買った。そして当日は、ツキウゲ、三角網、イカキ、ウナギカキなどの漁具を手にし、合図と同時に一斉に池に入り、ウナギ、ナマズ、フナ、コイ、モロコなどを捕まえた。

参加者から徴収した金は、泥落としの費用や消防団の運営、ため池に放流する稚魚の購入代金などに充てられた。「大勢が一斉に池に入ると底にたまった泥がこねられ、かき回されてドロドロになった池の水と一緒に排水された。魚をとる人には札を売って入漁料を取り、泥さらいを兼ねて池普請もできたので都合がよかった」(「日進市史 民俗編」、前掲書)。「池もみ」とも呼ばれた池殺生は、単に水を抜いた池で魚を捕るだけの行いではなかった。自然や農、食や文化とも連関しながら、ため池の環境を維持するシステムとして循環し、地域のなかで継承されていた。このあたりの池殺生がいつの頃から始まったのかわからないが、西日本から伝播し、ため池の造成から早い時期に行われるようになったのではないか。このような光景が昭和30年代くらいまで、各地のため池で見られた。

池殺生は、全てのため池で行われていたわけではない。栄養分に乏しくて餌が少ない、魚が大きく育ちにくいところでは、実施されなかった。一方で、魚がよく育つため池では稚魚を入れ、ため池を養魚場として活用していた。現在の名古屋市名東区の「猪高村誌」(1918年)には「水産業」として村内のため池でコイ、フナ、ウナギなどの養殖が行われていたとあり、生産額も記載されている。名古屋の内陸でも魚を捕り、食べる習慣があった。それは、ため池だけではない。川や田んぼ、溝などの内水もそうで、恵みをもたらしてくれる身近で貴重な存在だったのである。

柄についた針をたたきつけてウナギを捕獲した「ウナギタタキ」(岩崎城歴史記念館で撮影)
池殺生でよく使われた「ツキウゲ」。逃げて来た魚を伏せて上部に空いている穴から手を入れて魚を捕まえた(岩崎城歴史記念館で撮影)
小魚を追いこんで捕まえた「イカキ」(岩崎城歴史記念館で撮影)
池殺生が行われていた名古屋市名東区の牧野ヶ池

生き物のゆりかごである里山を守る

尾張地方の東端にあり、名古屋市の東部と接する日進市。尾張丘陵に含まれるこの地にも、ため池はいくつも残っている。市内のもっとも東に位置する岩藤町に岩藤新池がある。この池は、もっとも大きい「下池」と、隣接する「上池」、「空池」の3つからなる。このあたりは、日進から名古屋を流れて海へと注ぐ、天白川水系の源流域となっており、湿地が広がっている。豊かな湧水によって潤う湿地には、希少な生き物が棲んでいる。この地で自然保護に取り組んでいる「水源の里の会」の代表・加藤英俊さんによると、様々な植物やトンボ、チョウの他、多くの野鳥を観察することができるという。魚類では、環境省の絶滅危惧種に指定されているウシモツゴ、カワバタモロコ、ホトケドジョウなどが生息している。

2009年8月、岩藤新池で池殺生が約20年ぶりに行われた。耐震補強のための工事が計画され、池の水を抜くことになる。この機会を活かし、地元に伝わる伝統文化を体験し、後世に継承していこうと、この池を管理する岩藤区が企画し、行政も協力した。特定外来種の駆除も目的の一つとし、食べることで命の尊さを学ぶ食育体験なども実施された。開催当日は、約100人の子どもたちが池に入り、ブラックバス、ブルーギル、アメリカザリガニ、カワムツ、オイカワなど13種の生き物を捕まえて観察した。また、地元の住民が鯉こく、ブラックバスのフライ、ブルーギルの唐揚げを調理して振る舞った。

町民の有志らを構成メンバーとする同会は、岩藤新池および周辺の管理、池の下方にある田んぼや里山環境の保全などに取り組んでいる。具体的には、動植物の保護、外来動植物の除去、除草、湿地の案内、田んぼを利用した農業体験などである。ため池のすぐ南側を流れる岩藤川には、県の指導を受けて2009年に設置した水田魚道があり、この管理も行っている。かつては水田や水路、川はつながっており、生き物は自由に行き来することができた。多くの魚にとって、水田は産卵や生まれた稚魚が育つ大切な場であったが、現在の水田は落差によって遮断されてしまい、多くの生命の循環が絶えてしまっている。この水田魚道を設置してから、ドジョウ、メダカ、タモロコなどの行き来が多く確認された。加藤さんは、岩藤新池とその周辺について「自然の要素が全部ここにはある。昔の里山が守られている」と話した。

「美しい愛知づくり景観資源600選」に選ばれている岩藤新池
2009年に岩藤新池で行われた池殺生(天白川で楽しみ隊提供)
岩藤川に設置されている水田魚道
岩藤新池の堤にある水神を祭った石柱

現存するため池の再評価を

岩藤新池は、新田開発の際に造られたため池で、加藤さんは、江戸時代の中期くらいに造られたのではないかと推測する。下池の北側の堤には、水神を祭る石柱が安置されており、毎年4月に池の安全と田畑の豊作を祈願する神事が行われている。尾張丘陵では、高度経済成長期に入り、ため池の数が急速に減少した。名古屋市内のため池を見ると、1965年に360か所あったが、87年には113か所まで減っている。(「身近な水辺 ため池の自然学入門」、前掲書)。「都市の中にあってはもはや灌漑用としての機能を失い、無用の長物とみなされたため池は、埋め立てられて宅地や公園に転用され姿を消した」(同書)。その後、激減は止まり、「市内河川・ため池・名古屋港の水質の変遷」(名古屋市、2016年)によると、2014年には111か所のため池が残った。しかし、市内で比較的自然が保たれているのは、いくつかのところに過ぎないという。

ため池は、生物の多様性を守る場としてだけでなく、地域社会の基盤として、先人の暮らしと深く関わってきた歴史を伝える遺産でもあり、今も多面的な機能を有している。その存在価値をもう一度見直し、評価を改めてみてはどうだろうか。現存するため池から、私たちが学べることはたくさんあると思う。