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地元で語り継がれる   笈瀬川のかっぱ伝説

取材・文 新美貴資
  • まち
  • 自然

昔、名古屋駅のそばを笈瀬川(おいせがわ)という川が流れていた。川の流域にはかっぱの伝承がいくつか残り、今も語り継がれている。笈瀬川が存在していた跡と、本当にいたかもしれない妖怪の姿を探して、かつての川筋を歩いてみた。名古屋に伝わる人間と川とかっぱの物語を調べてみて、分かったことや感じたことを書いてみたい。

名古屋の中心部を流れていた

笈瀬川は、現在の名古屋市西区名塚の悪水(汚水)を源流とし、同区押切を通って中村区や中川区の東部のあたりを南下し、熱田区熱田新田東組に至って中川(今の中川運河)となり、港区築地町を経て名古屋港内に注いでいたという(『中村区史』)。名古屋城を築城する際に、石垣を輸送する水運として利用されていたともいわれているから、昔は十分な水量があったのだろう。しかし、近代においては、狭い川幅で経済活動に利用されることがなく、大正末期からの工事によって暗渠(あんきょ)となり、地上から姿を消した。その川筋は道路となって今は「笈瀬通」と呼ばれている。

笈瀬川の名前の由来には、いくつかの説がある。川のあったあたりは、かつては伊勢神宮の神領であり、そこを流れることから「御伊勢川」と書かれ、文明元年(1469)に「大神霊」の白旗が流れたから、というのが一つ。また、元和(1616-23)の頃に伊勢神宮の大麻と木馬が降りてきたので、尾張藩祖徳川義直がこの地に伊勢神宮の神霊をまつる神明社を勧請(かんじょう)したから、などの説がある(『中村区史』)。笈瀬川の流域には神明社が多くあり、伊勢神宮と深い関係にあったことがうかがわれる。

笈瀬川の痕跡がなにか残っていないか、流れていた当時の川筋を歩いて探してみた。グーグルマップを見ると、西区の「押切公園西」から中村区の「笈瀬通」の交差点まで、「笈瀬川筋」と表示されている道路が北からのびている。そして、そこからは「笈瀬本通商店街」と表示される道路が中村区の「米野小学校東」の交差点までまっすぐ南に続いている。歩いたのは、笈瀬川が流れていたと考えられる、上流から中流までの約4キロの区間である。この道筋が、かつての川筋であったかどうか、愛知県図書館にある明治や大正の頃の地図を見て確かめてみたところ、笈瀬川の流路と一致した。

西区押切に白山神社という神社がある。この西側を笈瀬川が流れ、権現橋という石橋がかかっていたという。その橋の欄干が、この神社の垣根の一部に使われている。境内の鳥居の左右には、それぞれ「権現橋」と彫られている太い石柱が起立していた。そこから川筋を南へ下り、西区則武新町の「ノリタケの森」の前を通り過ぎる。しばらく進むと、東海道新幹線および本線の高架下のトンネルのような道があらわれる。名古屋駅から北へ200メートルくらいのところだ。この暗い道に沿って、市が管理する「笈瀬川自転車駐車場」があった。さらに南下した中村区佐古前町には「市立笈瀬中学校」があり、中川区には「笈瀬町」が存在する。この学校の近くや町の中を笈瀬川が流れていたのだろう。川が存在したことを示す遺物や名前は、流域に今も残っていた。

大正11年(1922)の名古屋駅周辺の地図。笈瀬川は名古屋駅の北から西を流れていた。地図の上部に笈瀬川の表記が見られる
笈瀬川が注いでいた中川運河(昔の中川)。中川区の中野橋から下流を眺める
白山神社にある権現橋の欄干
名古屋駅の近くにある笈瀬川自転車駐車場

笈瀬通にある3体のかっぱ像

名古屋駅から南西へ500メートルくらい歩いたところにある「笈瀬通交差点」。南北にはしる笈瀬通が、東西にのびる太閤通と交わる地点である。交通量の多い交差点の南側の両角に、愛嬌のある2体のかっぱ像が、かつて流れていた笈瀬川を両岸から挟むように川下を向いて建っている。

昔、笈瀬川に子どもが好きな1匹のかっぱが棲んでいた。このかっぱは、力持ちの男の子に変身する特技を持っていた。ある日、川でおぼれている子どもを助け、それからみんなに「人助けのかっぱ」と親しまれるようになる。以上が、この地に伝わるかっぱ伝説の由来である。「かっぱ商店街」との愛称をもつ地元の笈瀬本通商店街振興組合によると、笈瀬通交差点にある2体のかっぱ像は、地元の有志らによって30年前くらいに建てられたという。かっぱ像のある交差点から笈瀬通をしばらく南へ下ると、須佐之男社という小さな神社がある。この場所にも1体のかっぱ像があり、道行く人々を見守っている。

7月22日、笈瀬通に面した旧牧野公設市場跡(中村区太閤3丁目)で、同組合による恒例の夏のイベントが開かれた。会場では、バザーや抽選会、野菜の詰め合わせの特売が行われ、来場者でにぎわった。終了後には、地元の住民らで構成する「かっぱライフ実行委員会」による第2回笈瀬川まつりが同じ会場で催され、子どもたちが輪投げ、アクセサリー作り、フリーマーケットなどを楽しんだ。同委員会は、笈瀬川にかっぱが棲んでいたという伝承を守り、地元の牧野地域の魅力を掘り起こして活性化につなげようと、2022年よりさまざまな活動を行っている。

須佐之男社に建つかっぱ像
笈瀬本通商店街振興組合のかっぱが描かれたのぼり
旧牧野公設市場跡で開かれた夏のイベント
催しの会場内に設置されていたかっぱの看板

江戸時代の押切にかっぱがいた

笈瀬川のかっぱ伝説は、1つだけではない。江戸後期に完成した尾張の地誌『尾張名所図会 付録(別名:小治田之真清水)』には「椿の森 河童乃怪」と題して、笈瀬川にかっぱが現れた時の様子を文章と絵によって伝えている。

宝暦6年(1756)7月3日、巾下(現西区幅下)の西に住んでいた河合小傳治という老士が、明け方の景色を見ようと押切のあたりを歩いていた。そこへ7、8歳の子どもが後をつけてくる。どこへ行くのかと聞いたら「われは椿の森に住むもので、押切の水車まで行くところだ」という。この子どもがかっぱであった。かっぱはいきなり小傳治の肩に手をかけ、強い力で引き倒そうとした。小傳治は勇強な男であったのでこれを捕らえ、「若いときであれば一拳に打ち殺すところだが、今は念仏修業の老人なので許してやる」と言ってにらみつけると、かっぱは笈瀬川へ飛び込んで逃げていったという(横地清『中村区の歴史』愛知県郷土資料刊行会、前田栄作『尾張名所図会 謎解き散歩』風媒社)。

この昔話に出てくる「椿の森」とは、古木が多く茂っていた椿神明社(中村区則武町2丁目)のことで、そのすぐ東側を笈瀬川が流れていた(横地、前掲書)。椿神明社は、名古屋駅の太閤通口から西へ300メートルくらい歩いたところの名古屋駅西銀座通商店街の入口のアーチ手前に今もある。

かっぱ伝説は、まだある。場所は、かつて流れていた笈瀬川と江川の2つの河川が合流していたあたりで、現在の山王通があるところである。ここに昔、かっぱが棲んでいて人々から敬われていたという。近くの鹽竈神社(しおがまじんじゃ、中川区西日置1丁目)の境内には、痔を治してくれる、商売の繁盛、子どもたちを守ってくれる神さまとして、境内の無三殿社にかっぱがまつられている。神社によると、夏の暑い盛りに堀川の土手で、かっぱが子どもたちと水遊びや甲羅干しをして遊んだという言い伝えが残っている。神社では、毎年8月にかっぱ祭が開かれている。

『尾張名所図会 付録(別名:小治田之真清水)』に描かれている「椿の森 河童乃怪」(愛知県図書館所
名古屋駅の西にある椿神明社。この横の道を笈瀬川が流れていた
無三殿社のかっぱの神様。ひしゃくでくんだ水を頭のお皿に3回かけて願いごとを祈る
無三殿社のかっぱの絵馬

かっぱから見えてくるもの

かっぱは、人に悪さをするが、助けたり、福をもたらしたりもする伝承が全国に多くあり、善者なのか悪者なのか実体のよくわからない、想像上とされる水陸両性の不思議な生き物である。その存在は、信仰の対象であったり、人を驚かす妖怪であったり、自治体やアニメなどの愛らしいキャラクターであったりとつかみどころがないが、私たちのつねに身近なところにあって、時代とともに姿かたちを変えながら生き続けている。かっぱについて調べていくと、地域の歴史や自然、さらには人間のことがもっと見えてくるかもしれない。

笈瀬川が地上から姿を消して、100年近くが経とうとしている。この川が流れていた当時のことを知る人と出会うことはできなかったが、以前の記録を調べてみると、牧野神明社(中村区太閤1丁目)で行われる〈旧9月15日の甘酒祭は、古くは笈瀬川の水をくみ甘酒をつくり有名であった〉(横地、前掲書)、〈明治時代までは水もきれいで魚もいた〉(名古屋市笈瀬中学校社会科クラブ『中村区の歩み 第1集』)との記述が見られ、水質は良好で人々の暮らしとも深く関わっていたようだ。今回の取材を通して、地元の人々のかっぱに寄せる心情のなかに、かつての笈瀬川を懐かしむ気持ちが今も流れているのではないかと感じた。この川の記憶を探しに、また笈瀬通を歩いて見聞をさらに広めたいと思う。