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「とむらい」のなかに存在する自然観 魚の供養碑から考える

取材・文 新美貴資
  • 自然

現代は死者の幸福を祈る供養が盛んである。供養の対象となるのは人間だけではない。一緒に暮らしたペット、人間のために利用された動物、さらには包丁、ハサミ、人形などの道具や愛玩物にまで及んでいる。亡くなった命をなぐさめるために建てられる供養碑には、動物を祭ったものが数多く存在する。このようなものを人間はなぜつくるのか。愛知県内で見つけた水域の生き物の供養碑や墓を紹介し、人間と自然の関係について考えてみたい。

豊橋に残るウナギ供養碑

豊橋市の郊外を流れ三河湾に注ぐ梅田川。県道が通る御厨橋(おんまやはし、天伯町)の周辺は、田畑や空き地が広がるのどかな風景が続いている。この橋から川に沿って下流に歩くと、見晴らしのよいなかに木々が茂っている所があり、木陰に守られるようにして1基の石碑と2基の石仏が安置されている。車も人もほとんど通らない、近くには民家もないこのような場所になぜ石造物があるのだろうか。

石碑は1メートルくらいの高さで、表には「養鰻諸牲〇鎭魂守護攸」(〇は読解不可、一部旧字体を新字体に変更)、裏には「贈清水只雄/昭和四十八年八月/豊橋南部養鰻組合建之」と刻まれてある。「養鰻」の文字からウナギを祭った供養碑であることはわかった。事情をよく知る地元の70代男性が話してくれた。この男性は、30年以上前に近くの野依町でウナギを養殖していたという。

このあたりは昭和の一時期、養鰻業が盛んで生産者による豊橋南部養鰻組合という任意の組織があった。当時、組合の会長をしていたのが清水只雄氏で、空いていた土地に供養碑を建てる。それから毎年1回、8月のうら盆の時期に寺の僧を呼んで経をあげ、その後に宴会を開いて参加した組合員で飲食をしたという。供養碑を建てるにいたった背景には、ウナギへの感謝の気持ちや事業繁栄への願いがあったようだ。当時は景気が好調で、ウナギもよく売れた。最盛期には、18軒くらいの養鰻業者が組合に入りウナギを生産していたが、今このあたりで養鰻を行っている者はいない。残った最後の1軒が廃業したのは15年くらい前で、供養の慣習がすたれた時期とちょうど重なる。

男性によると、今もウナギの供養碑に花を供える人がいるという。昔のことを知る養鰻関係者はもうほとんど残っていないというから、ウナギとは関わりのない誰かがこの供養碑を祭っているのだろう。わたしが訪れた時には、供養碑と石仏に花が供えられ、周辺の草木は刈られて掃き清められていた。養鰻の盛衰を眺めてきた供養碑は、今もこの地を見守っている。

豊橋に残るウナギ供養碑(左)と2基の石仏
梅田川沿いの木陰に石碑が建っている
御厨橋から梅田川を眺める

知多半島にあったウミガメの供養習俗

愛知県南知多町に豊浜という所がある。知多半島の先端部に位置する、漁業の盛んな地域である。漁港を望むことができる海沿いの一角に、小さな地蔵堂がある。「峠の地蔵さん」。地元では、そう呼ばれ親しまれているようである。ここに漁師が埋葬したウミガメの墓がある。わたしが訪れた時には、地蔵堂の横の空き地に1基の小さな石碑があるのを見つけた。

人間とウミガメの関係にくわしい藤井弘章氏が書いた「ウミガメの民俗3 知多半島のウミガメの墓」(日本ウミガメ協議会機関紙『マリンタートラー』第7号より)によると、この場所には、昭和50年頃までに少なくとも11基のウミガメの墓標が建っていたという。同氏の報告によると、知多半島にはウミガメの墓が寺院などに23カ所あり、なかでももっとも多いのが南知多町であるという。

知多半島の漁師たちは、昭和の戦前から網にウミガメが入ると、生きていれば酒を飲ませて海に帰し、死んでいれば持ち帰って埋葬・供養していた。なぜこのようなことをしたのか。ウミガメは龍神の使いで、魚をもたらしてくれると信じられており、その一方で、怒らせたら海を荒らしてしまう恐ろしい存在でもあったからである。

知多半島でもっとも古いウミガメの埋葬は、南知多町の浄土寺の事例で、明治42(1909)年にさかのぼる(小島孝夫編『海の民族文化―漁撈習俗の伝播に関する実証的研究』明石書店)。「甲羅に三重県伊賀上野の住人の名前が書かれたウミガメが漂着し、それを埋葬したところ、霊験あらたかなオカメサンとして信仰されるようになった」(藤井弘章「10民俗 ヒトとウミガメの関係史」―亀崎直樹編『ウミガメの自然誌 産卵と回遊の生物学』東京大学出版会より)。

藤井氏の考察によると、オカメサン信仰が知多半島周辺まで広まり、ウミガメの埋葬・供養習俗が発生した。そして、明治後半になると海底をひく打瀬網漁が盛んになりウミガメの混獲が増える。また、半島に広がる砂浜に産卵のためウミガメが漂着することも影響し、このような習俗が大正・昭和にかけて盛んになったという。

このウミガメの墓は、豊浜の「峠」という場所にある。住民の何人かに話を聞いてみたが、知っている人はいなかった。漁港にいた漁業関係者にもたずねてみたが、ウミガメが網にかかったというような話は聞いたことがないという。

峠の地蔵堂から海沿いの道を東へしばらく歩き、小佐郷の集落に入ると浄土寺がある。ここに巨大なウミガメの石造物があり、周辺の人びとに親しまれている。ウミガメを供養・埋葬する習俗は、すでに風化してしまっているのかもしれないが、ウミガメを特別な生き物として敬う信心は、地元の住民の記憶のなかに受け継がれ、今も生きているのではないかと感じた。

豊浜の峠にある地蔵堂
地蔵堂のそばにあるウミガメの墓
オカメサン信仰で知られる浄土寺
浄土寺の境内にあるウミガメの石造物

近代以降に多くが建てられる

愛知県内にある水域の生き物の供養碑(慰霊碑、観音像などのモニュメントも含む)は、現在わかっているだけで82カ所にある。これは、「魚類への供養に関する研究」(田口理恵・関いずみ・加藤登『東海大学海洋研究所研究報告 第32号』、2011年)にある、全国的な文献の調査や漁業事業者へのアンケートの回答などをとりまとめた結果(文献情報に従うことで、現在は存在しない碑も含まれている可能性がある)を引用し、わたしが新たに見つけた2カ所を足した数である。愛知は、全国の都道府県のなかで4番目に多い。

県内にあるこれらの供養碑を魚種、地域、時代に分けて見てみると、魚種ではウミガメがもっとも多く、地域では南知多町が突出している。そして、全国的に見られる傾向とも一致するのは、供養碑の多くが近代以降に建てられているという点である。「魚類への供養に関する研究」では「近代以降は、供養対象となる生き物も、建立契機や建立主体も多様化してきた」と述べている。さらに「日本水産業の発展過程に沿うように、各地で供養碑が建てられてきたともいえる」と考察している。

経済の急激な発展によって漁業や養殖業も近代化し、大量生産・廃棄社会に組み込まれていく。また、沿岸の開発による埋め立てや工場廃水の汚染などにより、多くの生き物の生命が失われてきた。こうした環境の変化にもっとも敏感であったのが、海で魚を獲ったり育てたりする漁業者や養殖業者であった。

漁業者らは、奪われていく多くの生命に対する負い目を、消費者に代わり請け負ってきた。亡くなった生き物の慰霊と自身の救済を願う祈りが、供養の祭事を行う動機として働き、慣行へとつながっていったのではないか。そして、事業の隆盛という経済的な事情を背景に供養碑の建立が各地で進み、それと同時に供養の対象や碑を建てる目的も多様化していったのではないかと推測する。

わたしがこれまでに見てきた水産関係者が行う供養祭では、魚の霊をとむらうだけでなく、魚への感謝や大漁、業界発展などの願いも込められていたと記憶している。

豊浜の光明寺にある魚天観音
光明寺に建つふぐ供養塔
豊浜の「まるは食堂旅館 うめ乃湯」にある魚供養碑

自然のなかで人間も生かされている

供養とはなにか。辞書には「仏前や死者の霊前に有形・無形の物を供え、加護を願い冥福を祈るための祭事を行うこと」(『新明解国語辞典 第5版』)とある。供養碑とは、そのために建てられた碑である。

『どうぶつのお墓をなぜつくるか』(社会評論社)の著者である依田賢太郎氏は、日本人の動物観が欧米人のものとは異なることに触れている。「日本人は身近な家畜を家族の一員のように考え、扱ってきた。また、野生動物とも適度な距離を保って共生してきた」。同書によると、慰霊碑や供養碑などの動物塚の歴史は、縄文の時代からあったようである。だとすれば、生き物をとむらう行為のなかに、人間も自然界の一部として生かされているという、日本人がもつ独自の自然観が変わらずにあるのではないか。

このコラムを書いていて、子供の頃に飼っていた昆虫や金魚が死んでしまい、当時住んでいた団地の敷地内に埋めて墓をつくったことを思い出した。そして、失われた生命に対する後ろめたいような気持ちが、生々しくよみがえってきた。わたしたちは生きるために、毎日たくさんの生命をいただいている。人は、食べることを通して自然環境と深くつながっている。食べ物は、一つひとつがこの世に生まれ、生きていた命である。このことを忘れずに生命と向き合っていきたい。