ENVIRONMENTALCOLUMN 環境情報を知りたい方/環境コラム
身近な生き物である雑草 戦わない戦略で生き残る
現代において雑草はどんな印象を持たれているのだろうか。雑草が世間の関心の対象にあがることはほとんどない。多くの人にとっては役に立たない無駄な生き物として認知されているのかもしれない。しかし、一口に雑草といってもそこにはたくさんの種類があって、その一つひとつには名前がある。私たちの身近な所に存在している雑草に注目し、見つける楽しみや調べて得られた学びなどについて書いてみたい。
コロナ禍で雑草を意識する
手元にある辞典で「雑草」を引いてみると〈自然に生えるいろいろな草。また、農耕地で目的の栽培植物以外に生える草。たくましい生命力のたとえに使うことがある〉と書かれてあった。別の辞典を見てみると〈あちこちに自然に生えているが、利用(鑑賞)価値が無いものとして注目されることがない(名前も知られていない)草〉とか〈田畑や庭、道ばたなどにはえる、じゃまな草〉とある。現代において雑草は、人間社会に必要とされていない無益な存在として解釈されているようである。
雑草を意識したのはコロナ禍の時だった。さまざまな活動を自粛していたあの頃は、毎日昼間に自宅の周辺を歩き、気分の転換を図っていた。いつもの道を歩いていたら、足下に生える小さな雑草が目にとまった。コンクリートのわずかなすき間に根を生やし、懸命に生きている姿にひかれ、前を向く力が湧いてきた。この地球上で慌てふためいているのは人間だけ。そう思ったらなんだか気持ちが少し楽になった。それから散歩をする時は、気がついたら雑草を探すようになっていた。雑草は、生きることについて考えるヒントを与えてくれる大切な存在となった。
都市にはさまざまな種類の雑草が生息している。少し歩いてみるだけでも10種類くらいはすぐに見つかる。私がある日に散歩をした時は、30分ほど探してタンポポやカタバミの仲間、イネ科の草のほか、名前のよくわからないものが10種以上と、たくさん見つけることができた。それらを写真におさめ、図鑑と見比べて名前を調べてみた。葉の形や花の色などから名前を確かめるのは、思っていた以上に難しかった。それでも図鑑を読んでいると、ドクダミ、タカサゴユリ、ヨモギ、オオイヌノフグリ、スギナなど、見たことのある雑草がいくつも載っていて親しみを覚えた。
私が、雑草を見るうえで関心を持っているポイントが1つある。それは、どんな場所に生えているかである。雑草が伸びている所のほとんどは、アスファルトやコンクリートのすき間、溝の底、街路樹が植えられているますの中、砂利の更地などで、こうした所は、日光が当たらなかったり、乾燥していたり、人の足に踏まれたり、流れる水をかぶったり、植物にとって恵まれた環境とはいえない場所ばかりである。こんな過酷な環境の地になぜ生えているのか。驚くのと同時に疑問がわいて知りたくなった。
戦わない戦略で種を残す
雑草の生態に詳しい稲垣栄洋氏が書いた『雑草はなぜそこに生えているのか』によると、日本にはおよそ7000種類の種子植物がいて、雑草として扱われているのは500種程度であるという。稲垣氏は、雑草のもっとも基本的な特徴について弱い植物であることをあげている。植物は、光を奪いあい上へ上へと伸び、枝葉を広げて遮蔽(しゃへい)しあう。この競争に敗れると、他の植物の陰になって光を受けることができず枯れてしまう。だから、〈雑草は強い植物が力を発揮することができないような場所を選んで生えているのである。それが、道ばたや畑のような人間がいる特殊な場所なのだ〉。人間社会のなかに根付いている雑草は、巧みな生き方によって種を残すことに成功しているのである。
そして、〈弱い植物である雑草の基本戦略は「戦わないこと」にある〉という。都市のさまざまなすき間に生きる場所を見つけて存在している雑草は、弱いからこそ強い。競争しない戦略によって生き残る能力にたけている雑草は、ひょっとしたら自然界において最弱で最強な生き物なのかもしれない。
雑草は、私たちにとって役に立たない邪魔な存在なのだろうか。一方では、「雑草魂」のような逆境に負けずに立ち向かう生き方にたとえた言葉もあり、たくましさを表す象徴にもなっている。雑草のなかには食べられるものや薬になるものもある。稲垣氏の書いた『雑草と日本人』を読むと、昔は刈り取って田畑の肥料に使われていたし、その強さから戦国大名の家紋にも採用されていたとある。先人は、雑草の一つひとつの種の性質についてよく理解し、さまざまな形で活用していた。雑草は、人の暮らしと深く結びついていたのである。
日本雑草学会のホームページには〈雑草は,劣悪環境の修復など,環境保全にも役立ちうる可能性を持っています〉と書かれている。都市の雑草には「生物多様性を豊かにする」とか「環境を守る」といった役割があるのではないか。雑草は、昆虫などの餌や棲みかとなる。土壌の浸食も防いでくれる。また、生えている所は土の中の水分の蒸発が抑えられ、夏の地温の上昇を抑制してくれるだろう。都市の緑化にも活用できそうだ。雑草の持つ力は他にもいろいろありそうで、もっと調べてみたくなった。
「雑」の中に大事なことが含まれている
雑煮、雑穀、雑音、雑貨、雑菌、雑種、雑食、雑学……。「雑」のつく言葉はたくさんある。辞典によると「雑」の字には、〈①まじる。まじえる。こみあう。②主要でない、いろいろな〉(『日本語大辞典 第2版』)といった意味があるようだ。有益か無益かに峻別され、何でも分けられてしまう近代以降の世界からこぼれ落ちてしまったもののなかに「雑」はあるのかもしれない。ちなみに「雑草」という言葉は、江戸中期まで存在していなかったという。植物学者として知られる牧野富太郎は「雑草という草はない」という言葉を残している。人間が勝手にひとくくりにしている「雑」のなかにこそ、何か大事なものが含まれているような気がする。
ここで「雑草」以外の「雑」のついた言葉をいくつか見てみたい。たとえば、いろいろの小魚である「雑魚」。海や川など水域の環境を考えるうえでは無視できない生き物たちである。生きている全ての物は、依存し、依存されることでつながっている。もしこれらの小魚がいなくなれば、食物連鎖が崩れて生態系は変わってしまい、私たちが普段食べている魚介類も影響を受けるだろう。
「雑談」は、はっきりとした目的のない、とりとめのない会話である。でも、人間関係を良好に保つうえでは欠かせない。雑談があるから、人と人との信頼関係は深まり社会は円滑にまわっているのだと思う。「雑味」は、うまさを損なう不純物の味とされている。本当にそうだろうか。解明されていないだけで、雑味とされているもののなかにひょっとしたらうまみを引き立てる隠れた成分が含まれているかもしれない。世の中にはわからないことが無数にある。一つひとつの種と同じように、一つひとつの言葉には深淵なる世界が広がっている
自分が生存できる場所で根を伸ばす
子供の頃、住んでいた集合住宅のまわりの草原で、雑草の茎をからめて引っ張りあう草相撲をして遊んだことを思い出した。昭和のあの当時、雑草は今よりもずっと近くにあった。花壇や鉢植えで人の手によって大切に育てられている植物も美しいが、道ばたにひっそりと生えている緑の葉や咲いている小さな花も、気持ちをやわらげ落ち着かせてくれる。自分が生存できる場所でたくましく根を下ろし、わが道を歩んでいる雑草の生き方から学び、気づけることはあるだろう。種名や生態についてはいろいろな本が出ているので、もし興味を持ったら目を通して、身近な所に生えているさまざまな草たちを探してみてほしい。雑草を知ることで新たな視界が開けるかもしれない。